運動会はつらいだけ。子どもも保護者も消耗する運動会は必要ない



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小学校の一年の中に、運動会は必要ありません。

球技大会や陸上競技大会に専念した方がずっとマシです。

10年以上小学校教員を続ける中で見えた運動会という行事について意見します。

 

運動会の練習は苦しみしか生まない

子ども達は体育が大好き

小学校で好きな教科アンケートをとると、ほとんどの場合体育は1位、もしくは上位に入ります。実際に授業中の姿を見ていても、多くの子が授業内容に没頭しています。

もちろん、個人レベルで見れば体育が嫌いな子もいます。ですが、ほかの教科に比べて体育を好む子が突出して高いのは事実です。

100メートル走、バスケットボール、鉄棒、跳び箱、サッカーなど、子ども達は多少の好き嫌いはありながらも多くの種目を6年間の中で楽しんでいきます。

 

子ども達は運動会の練習が大嫌い

体育が好きな子ども達。

が、同じ体育でも「運動会練習」となると好きな子が激減します。

運動会練習へ向かう子ども達の姿に楽しさはありません。

運動会練習から帰ってくる子ども達の姿に充実感は感じられず、ただ疲労困憊した無表情な姿があるのみです。

 同じ体育なのに、なぜ?

運動会の練習は体育ではなく集団行動

運動会練習では、実際に子ども達が運動に没頭する時間は極端に少なく、集団行動を「やらされている」時間や説教を受けている時間、待機させられている時間が多くを占めているんです。

 

通常の体育の授業では子ども達の運動量をいかに増やすかを考えます。

なのに、運動会練習だけは話を聞くことと集団行動をすることだけが求められ、運動量がおざなりになっています

 

球技大会も陸上競技大会も、集団行動の練習なんてしません。

練習の内容はあくまで競技そのもので、当日の整列や集合はぶっつけ本番でやっています。

なのに運動会だけがなぜか集団行動を異様に重視するんです

 

正確には集団行動も体育の一つではあります。

ですが、子ども達が思い浮かべる「体育」ではありません。

 

 

大人の言う通りにしなければ説教

集団行動とは、4月の早い時期に行う、背の順を決めたり整列の仕方を確認したりする授業です。

運動会練習では、その集団行動を異常なほどに求められるのです。

少しでも整列が乱れようものなら説教。

行進で足並みを揃えない子は説教。

炎天下の中待機させられる中、動いた子は説教。

従順なロボットにでも育てているかのような光景です。

 

やらされている体育、やらされている運動

子ども達が主体的に学ぶ学習方法。

やらされる勉強ではなくやる勉強。

これからの指導方法として次の10年で本格化される考え方です。

アクティブラーニングといいます。

 

運動会練習はこのアクティブラーニングの対極に位置するものです。

大人の言う通り、命令通りに動くことが求められる授業です。

 

発達障害の児童と保護者にとって運動会は苦痛

ここまで説明すれば言うまでもないのですが、あえて言います。

発達障害の子ども達にとって、運動会練習は地獄です。

発達障害の子達は運動会の時期になると耐えがたい苦痛を感じ、酷い場合は学校に来れなくなるケースもあります。

そしてその保護者の方も、我が子の苦痛を家庭で受け止めるものの解決策が見つからずに悩み続けます。

 

自分もこれまでに多くの保護者の方から相談を受けてきました。

特別支援学級であれば集団行動の恐怖から隔離して安全に指導することも、行事自体に参加せずその時間を勉強に充てることも可能です。

ですが、通常学級では満足な支援をすることができず、子どもには負担が重くのしかかります。

 

発達障害の子は通常学級に居てはいけないのでしょうか。

 

近隣の住人は運動会の練習をどう見るか

小学校の近くは騒音に悩む

近頃、保育所の騒音問題が話題になっています。

世代間、国家間のギャップなんかが論点になっている場合が多いですね。

実際フタを開けてみると、子どもの声よりもそれ以外の騒音やマナーの問題が多いようですが。

 

さて、運動会シーズンになると、小学校の近隣でも騒音問題が起こります。

と言っても、多くの場合騒音と認識されているのは子どもの声ではありません。

 

子どもの声は騒音ではない

もう一度。

運動会練習で近隣の迷惑になっている騒音は、子どもの声ではありません。

それはなぜか。

子ども達は運動会練習の間、ほとんどしゃべることがないからです。

無言、もしくは「強要され作られた歓声」を発しながら練習をしているからです。

 

教師の怒鳴り声

騒音の正体は教師の怒鳴り声です。

大きな学校では、一つの学年が一同に会し100名以上に一斉指導を行う場合もある運動会練習。

一糸乱れぬ集団行動を完成させるために、教師はマイクを通して指示を出していきます。

それがまともな指示であればいいのですが、多くの場合、マイクを通して大音量でスピーカーから出てくる声は、子どもを罵倒する声やヒステリックな金切り声です。

 

洗脳の現場

説教の現場もひどいものです。

「先生がこうして話しているのにどうして聞かない人がいるんでしょうね!」

「先生の話は聞くのがあたりまえですよね!ねぇみんなそうですよね!」

子どもはその問いに「はい」と答えます。

 

先生の話って本当に聞くのがあたりまえなんでしょうか?

子ども達が話を聞くのは、

聞くに値する話だからじゃないんですか?

聞かせる技術を散りばめた話し方だからじゃないんですか?

聞く側への配慮を徹底した姿勢だからじゃないんですか?

 

自分には理解できない洗脳の現場が運動会練習では垣間見えます。

見知った近隣の住人から「ああいう指導ってどの先生もやってるんですか?」と聞かれて、自分はただ謝ることしかできませんでした。

 

運動会当日の家族の負担

弁当は本当に作らなければならないの?

  • 運動会の日は朝からお弁当を作る
  • 家族親族のために朝から観客席の争奪戦を頑張る
  • お昼になると、かわいい我が子を親族で囲みお弁当を食べる

昔はそれが普通だったのかもしれません。

でも今の時代にはそぐわないと思います。

実際、無理が出てきています。

 

「昔はこうだった」みたいな意見はもう必要ない

共働きの家庭が増えました。

今の時代、それぞれの家庭にそれぞれの事情があります。

どの家庭も我が子のため、一生懸命に上のステレオタイプに従おうとするのですが、どうしても無理な家庭は無理なんです。

 

「なんでうちのお弁当はお惣菜なんだろう?」

「なんでうちは親が応援に来ないで仕事に行くんだろう?」

 

子どもも大人も傷ついています。

 

変化に対応できない運動会

働き方も家庭のあり方もすごいスピードで変化しています。

変化していく全ての家庭に最大限の配慮をするという道はないのでしょうか。

過去の慣習に囚われず、家族の参加の新しい形を提案することはできないのでしょうか。

 

 

改善策を考えてみる

怒鳴らない運動会練習

  • その時間の目標を提示する
  • 短く指示する
  • できている子をほめる
  • できない子はサブの教師がついて一対一で指摘し指導する
  • 運動量を増やす
  • 場当たり的な変更をしない
  • 子どもを待機させて授業時間中に教員同士で相談しない
  • 絶対に怒鳴らないということを教員間で確認する

通常の体育の授業と同じです。

まずは全ての教員が専門職として基本的な「伝える技術」「学ぶ側への配慮」を意識したいものです。

 

許す運動会練習

完璧な出来を求めなきゃいいんです。

整列も行進も大体でいいんです。何なら無くてもいいんです。

よーいドン!からゴールまでの競技している瞬間だけを大切にすりゃいいんですよ。

競技の始まる場所に子ども達が集まれればそれでいいんです。

次に誰が走るのかが遠目に見て大体わかればいいんです。

ちょっとぐらいズレてたりはみ出したり間違って歩く子がいたりしても許しましょうよ。

事実、球技大会や陸上競技大会では入場や行進なんてテキトーです

いいんですよそれで。

 

PTAと連携する運動会

うちの運動会はユルくやります。怒鳴りたくないからです。子ども達に運動会を楽しんでほしいからです。

だからちょっと整列や行進がだらしなくても許してくださいね。

 

そんな方針をPTAを通して保護者の方々に伝え、学校と家庭が同じ目線で「競技をがんばる姿」だけを求めていけばいいんですよ。

 

時短運動会

午前で終わりましょう。弁当無し。

昼食は家でゆっくり食べてもいいし、どっかで外食してもいいですね。

これで運動会当日の家族の負担は大きく減ります。

そしてもう一つ。

観客席問題については事前にクジでもやっておきましょう

これは実際にやっている学校が結構あります。

 

球技要素の強化

もういっそ運動会やめて球技大会でもいいんじゃないですか?

子ども達がやってて楽しい内容にしてあげましょう。

大きな学校でも「全校一斉」をやめれば可能ですよ。

今日は1年生の球技大会の日!みたいにすりゃいいんです。

 

 

おわりに

時代は昭和型労働礼賛から昭和型労働否定へ向かっています。

全体主義から個人主義へ向かっています。

画一性重視から多様性重視へ向かっています。

 

運動会は今の時代に合わせるべく一度ゼロベースで見直すべきだと思います。

それができないのであれば、もうこの行事は学校教育に必要ありません。